地域の情報(1) |
鴨居第八地区とは | 鴨居原農専区域の風景 |
鴨居町は市営バスの36、12系統原通りバス停の付近から小高い山(鴨居原農専区域)に登り、鴨居第八地区自治会館の前(市営バス1系統の地蔵前バス停)に下り、バス通りを超えて竹山団地の下付近、そして鴨居原農専区域西端から、神奈川区菅田町、保土ヶ谷区上菅田町に接する畑と緑に恵まれた自然豊な地域です。少し前までは蛙の鳴き声や蛍が飛び交う田園風景も展開されていました。 鴨居第八地区は前述の鴨居原農専区域から、バス停地蔵前を越えて竹山団地下までで、竹山の一部も含みます。学校区は3つの小学校と2つの中学校があり、諸行事の豊な地域でもあります。 鴨居原農専区域は山肌でしたが、農地造成の折には遺跡が発掘されました。その付近の切通しには貝塚も散見され、昔の鎌倉街道とも言われておりました。鴨居は鴨居1,2、3、4丁目と鴨居町から構成され、鴨居連合自治会として傘下には8つの自治会があります。 |
鴨居の発展 |
鴨居は昭和30年代まで、静かな農村地帯でした。次ぎの表は時代の移り代わりと家の数の変遷です。表が示す様に昭和37年(1962)12月にJR横浜線・鴨居駅が開設されると同時に宅地開発が始まった。駅が出来るまでは駅と駅前のバス通りの間には三軒の家しかなかった。鴨居勧銀団地、鋼管団地と次々に住宅ができ、たちまち人口はふくれあがりました。(鴨居史より) |
年代( ) 内西暦 | 家の数(戸) |
文政年間(1820年前後) | 85 |
嘉永年間(1850年前後) | 75 |
明治8年(1875年) | 84 |
昭和14年(1939年) | 89 |
昭和30年(1955年) | 137 |
昭和50年「1975年) | 1264 |
平成11年(1999年) | 5110 |
鴨居原遺跡(鴨居史より) |
鴨居原遺跡跡は鴨居町908番地にあります。鴨居原土地基板整備事業に伴う計画予定地の埋蔵文化財の有無の照会が横浜市教育委員会文化財課にあって、平成2年2月から約2ヶ月の試掘溝調査があり、溝遺構と古墳1基が確認され、同年4月から4ヶ月間調査が行われました。 台地を1つ隔てた北側0.6キロメートルには殿谷戸遺跡があります。東1キロメートルには日向目根横穴暮があり、1.2キロメートルには日向根遺跡、そして北東1.5キロメートルには東耕地遺跡があります。 検出された遺構は縄文時代早期の土坑117基、炉穴1基、焼土遺構1基、撚糸文期の竪穴居住址1軒、古墳1基、古墳時代以降と考えられる溝状遺構1条です。副葬品は少なく石棺内から人骨に伴い一対の胴釧、周溝上面から鉄刀一片と須恵器辺が出ました。戦前に畑を開墾した時、人骨と鉄刀などが出て警察に届けられたがその後の消息は分らない。 住居址は復元すると床面積29.7平方bの長方形プランとなります。撚糸文後半の住居址の基本型は方形jプランで、中央に方形彫り込みがあり、その4隅に60aぐらいの柱穴(=内郭柱穴)、内郭柱穴を囲む比較的深い柱穴(=外郭柱穴)、四辺(二辺)に二本単位の深い壁柱穴を持っている。 港北ニュータウン地域は数多くの遺跡調査が行われているが、類似の居住址も多く見つかっています。例えば山田大塚遺跡の25号居住址、寺谷戸遺跡の21号住居址はその代表的なものである。 陥穴状土坑が多数検出されたのもこの遺跡の特徴だ。同土坑は多摩丘陵地域に極端に集中し、武蔵野台地、下末吉台地に少ないという分布傾向を持っている。鴨居原は百平方b当りの土坑密度は1.1程度で似たような密度の高い土坑は港北ニュータウンの早淵川南岸の西半部、都筑自然公園地内遺跡群周辺、矢指谷遺跡周辺、霧ヶ丘遺跡、長津田遺跡群周辺などのあります。 これらはいずれも共通した地形を持っている。5ー15度未満の傾斜地を持つ緩斜面に分布し、丘陵頂部5度未満の平坦部では分布が少なく、15度以上の急斜面ではほとんどありません。 調査報告書では次ぎのように書いています。「鴨居原の地が陥穴状土坑を設営する狩猟地として頻繁に利用され続けたこと。さらに言えば当事陥穴猟に適した土地として長く認識され続けたことを示していると考えて良いだろう」古墳は帆立貝型前方後円墳と推察され、主体部埋設形態をとる変則的古墳であす。この形は東関東地方(常総)地方の後期古墳にみられる埋葬形態で、横浜市内では軽井沢古墳だけがこの形態です。更に主体部が周溝寄って築造されている例は他に見ない。 築造は6世紀中葉くらいと考えれている。 この遺跡調査の時、北側の谷を隔て塚が発見された。溝状の落ち込みの断面が露出していて、これは塚を取りまくようになっていて、塚は円墳と推定された。調査委員はこれを柳下邸内古墳(仮称)と名付けた。遺物等は出ていない。 遺物散布地は東鴨居中学校周辺に散在します。 隣り町だが東本郷の東耕地遺跡は鴨居周辺では早期に調査されました。 鴨居には遺物散布地が三ヵ所と横穴式古墳が駅前住宅のところにありあました。古墳時代の有力者の墓地として横穴墓(おうけつぼ)が出てくる。 この時代の墓には横穴式石室と横穴墓が出てきますが、横穴式は川崎市南部と横浜市内には極端に少ない。横穴暮は神奈川県内に多く、特に大磯丘陵、柏尾川・多摩川右岸・鶴見川流域に密集している。この他にも殿谷戸(とのやと)、霧ヶ谷戸(きりがやと)、高倉にあったがいつしか荒らされ、開発されて分からなくなった。 (次号につづく) |